「私達の中にあるもの」
ここでは、スタッフの思いを綴っていきます。
私達は自分の中にあるものしか投影できないのです。共感したいなら自分の中の感受性を高めなければなりません。 美しいもの、喜び、悲しみ、感動、笑顔、涙。受け取る事のできる感性を磨いていきたい。
~『活動』と『参加』について~
2016年02月09日


利用者のF様が在宅リハビリテーションでご自分の「目標」にしておられた、ゴルフに行くことができました。夢をかなえたその日は3年越しの「目標」達成を迎えるに相応しい秋晴れの清々しい気候でした(写真をご参照ください)。
3年前にF様がご自宅に退院された時には、医師から、『おそらく、もう一人では歩くことは難しいでしょう』と言われていました。そして、訪問リハビリテーションで理学療法士がF様のご自宅に初めて伺った時、F様は一人で座った姿勢を保つことすら難しい状態でした。
しかし、ご家族様の熱心な手助けもあり、様々な社会サービス資源を他の医療職、介護職と連携しながら試行錯誤し、本人の努力も相まって夢をかなえることができました。
訪問看護ステーションすまぁと須磨の訪問スタッフの服部PT(理学療法士)が3年前より担当させていただいておりました。服部PTがF様の機能評価(リハビリ―テーションを行う時の身体機能の検査)を行った当初、服部PTも医師と同じように「ゴルフは難しいのではないか…」と感じました。しかし、毎回、訪問リハビリテーションに伺う度に変化していくF様と、寄り添うご家族様の「目標」へ向かう姿勢を見て、「もしかすると…」と思うようになっていきました。
F様とご家族の「目標」達成されたお姿に感動するとともに、いかに訪問リハビリテーションを提供している時間が日常生活レベルでのリハビリに留まっているのかを痛感しました。QOLとは生きるための生活だけではなく「生きがいを持つ生活」という事をも包括した言葉であることを実感しました。
「最低限の日常生活動作」だけではなく、人生レベルでご本人様のご希望に沿える目標を設定し達成なさったF様に出会えたご縁に心から感謝いたします。
誰であっても、自分自身のやりたいことをやれることは愉しいもの。様々なしがらみがありますが、F様のように好きに活動をして、自分の趣味や、ひいては社会活動へ参加していけることが、当たり前になる日がくるように願います。これからも訪問リハビリテーションを通じて地域貢献に尽力して参りたいと思います。
(すまぁと須磨 理学療法士・服部健司)
※お写真や文章内容はF様とご家族様よりご承諾の上、掲載させていただいております。
地域リハビリ勉強会アンケート報告
2016年02月04日
お待たせしました!!
平成27年11月20日に行われた「地域リハビリ勉強会アンケート報告」のスライドをアップしました。すまぁと北支所の伊藤OTがパワポでプレゼンしたものです。
下記リンクからどうぞ↓
第5回 神戸マラソン
2015年11月30日


毎年スタッフの誰かが参戦している神戸マラソン。
今年はなんと吉田さん(訪問看護ステーションすまぁと統括所長・OT)、城下さん(灘支所・OT)、パートのTさん(北支所)が完走しました。
吉田さんは兄弟で参加でした。ちなみにフルマラソンは初めてだったそうです。
それから、援護射撃で救護班に冨嵜さん(北支所・緩和ケア認定Ns)も救護でがんばって参加されました。
皆さんにお写真をご披露いたします^^
他人が見ているものを同じように見ようと努力することこそ赦しにつながる話
2015年08月18日
こんにちは、管理者の原田です。
最近はブログの更新が少ない!とのご指摘をいただきました。
以前、自分が書いたもので、人気が高かったものを今日はご紹介させていただきますね。
それではどうぞ↓^o^↓
あっれー? 昨日見た青と黒のドレスが今日は白と金に変わってる! なんでー?
「白と金」それとも「青と黒」? ドレスの色が人によって違って見える(画像)
自分の視覚なんてあてにならないということの典型である、ドレスの件。私たちは自分の脳の見たいようにしか見ていない。真実は一つだけど、一つではない矛盾。人間は矛盾した世界に生きる、矛盾した存在。たまたま私には青に見えた日もあり、白に見えた日もある。
でもそれは案外重要なことであると思う。人の感覚器の限界と曖昧さだ。人が何をどう感じて脳で処理するかは、とても不安定なものなのだ。主観ですら日によったり、状況によって揺れるのだ。まして、世界中の情報が瞬時に流れる現代に、それらは個々の人の感覚にどのように捉えられるのであろうか。
簡単で身近な例を挙げると、例えば私、ハラダという人間が、ある人たちにとってはすごく一緒にいて楽しく心穏やかに癒される存在だったとしても、別の種の人たちにとっては苛立ちと怒りと憤りしか感じられない存在かもしれない、というような感じであろうか。……青い服と白い服の論争を考察してみよう。
看護師の世界では共感や追体験と呼ばれるものが強調される。相手の立場に立つとか、思いを共有するとか、対人援助職ではさまざまな手法を学ぶけれど、青い服と白い服はその限界を示してくれているように思う。青く見える人に白く見える人に同意せよと言っても無駄だ。だから必要なのは寄り添うことや共感でもなくて、また別の何かではないだろうか。
青い服白い服を体感して「へー、すごい、不思議だね」でおしまいな人と「へー、なるほど、それは人の本質を表している」と感じる私のような人がいるのも、また同じ原理なのだ。一つの事象は個々の人の心にまったく別の位置付けがなされるのである。
どう目を凝らして見ても白くしか見えない家族に「いんや、これは青だよ」と言い張ってケンカになる、そういうのが戦争の一番小さなカタチだ。でも白いのも真実、そして青いのも真実。ドレスは一つなのに真実が二つある。すると、真実は一つという概念も揺さぶられる。正義も、何もかもがそう。
ところで、ドレスについて公式に発表された答えは、「実は青いドレスだった」とのこと。バックライトの加減で白く見えたりもするらしい、と。でも、白くしか見えない3割の人がいた。その人たちには「は? なんで青いの? 絶対白でしょ」と白くしか見えなかった。
そもそも、答えに意味と正義を見出し、白く見えた人に「それは、あんた、間違いよ」と正すのは平和を愛する人の理念にそぐわない。かといって青いけど白いよねー、と境界線をなくしてしまうと世の中は混乱してしまう。
曖昧さと矛盾に対して寛容になる、と、いうのが本質をついている。しかしながら、人は自分の心に「足がかりになる何か」という線引きなしでは生きていけない。線引きをしないと心許なくてとても不安になる。でも、だからこそ「赦し」が人類にとって永遠のテーマである。解決はないままでヨシとすることも、生きるがゆえの矛盾をかかえるのも、それこそが人生なのだ。
スタッフの講義から
2015年02月09日
当ステーションの言語聴覚士が「嚥下」について講義を行いました。「嚥下」ついてヘルパーさんが日常感じておられる質問に答えながらの講義で、大変わかりやすいものでした。
在宅嚥下のポイントは「誤嚥させない」ではなく、「誤嚥しても肺炎にならないようにする」、「「誤嚥性肺炎にさせない」ではなく、「誤嚥性肺炎を予知する」です。そのために、ヘルパーさんや看護師、理学療法士や作業療法士などの他職種との連携が大切です。
これを強調していましたが、普段から何を大切にしてリハビリテーションを行っているか、信念を感じるものでありました。
大切にしていることを大切にし続け、それを共有していくことは、簡単そうではありますが、普段の業務の中では難しいことです。一人一人の信念を大切にするステーションでありたいと、あらためて思いました。