他人が見ているものを同じように見ようと努力することこそ赦しにつながる話
2015年08月18日
こんにちは、管理者の原田です。
最近はブログの更新が少ない!とのご指摘をいただきました。
以前、自分が書いたもので、人気が高かったものを今日はご紹介させていただきますね。
それではどうぞ↓^o^↓
あっれー? 昨日見た青と黒のドレスが今日は白と金に変わってる! なんでー?
「白と金」それとも「青と黒」? ドレスの色が人によって違って見える(画像)
自分の視覚なんてあてにならないということの典型である、ドレスの件。私たちは自分の脳の見たいようにしか見ていない。真実は一つだけど、一つではない矛盾。人間は矛盾した世界に生きる、矛盾した存在。たまたま私には青に見えた日もあり、白に見えた日もある。
でもそれは案外重要なことであると思う。人の感覚器の限界と曖昧さだ。人が何をどう感じて脳で処理するかは、とても不安定なものなのだ。主観ですら日によったり、状況によって揺れるのだ。まして、世界中の情報が瞬時に流れる現代に、それらは個々の人の感覚にどのように捉えられるのであろうか。
簡単で身近な例を挙げると、例えば私、ハラダという人間が、ある人たちにとってはすごく一緒にいて楽しく心穏やかに癒される存在だったとしても、別の種の人たちにとっては苛立ちと怒りと憤りしか感じられない存在かもしれない、というような感じであろうか。……青い服と白い服の論争を考察してみよう。
看護師の世界では共感や追体験と呼ばれるものが強調される。相手の立場に立つとか、思いを共有するとか、対人援助職ではさまざまな手法を学ぶけれど、青い服と白い服はその限界を示してくれているように思う。青く見える人に白く見える人に同意せよと言っても無駄だ。だから必要なのは寄り添うことや共感でもなくて、また別の何かではないだろうか。
青い服白い服を体感して「へー、すごい、不思議だね」でおしまいな人と「へー、なるほど、それは人の本質を表している」と感じる私のような人がいるのも、また同じ原理なのだ。一つの事象は個々の人の心にまったく別の位置付けがなされるのである。
どう目を凝らして見ても白くしか見えない家族に「いんや、これは青だよ」と言い張ってケンカになる、そういうのが戦争の一番小さなカタチだ。でも白いのも真実、そして青いのも真実。ドレスは一つなのに真実が二つある。すると、真実は一つという概念も揺さぶられる。正義も、何もかもがそう。
ところで、ドレスについて公式に発表された答えは、「実は青いドレスだった」とのこと。バックライトの加減で白く見えたりもするらしい、と。でも、白くしか見えない3割の人がいた。その人たちには「は? なんで青いの? 絶対白でしょ」と白くしか見えなかった。
そもそも、答えに意味と正義を見出し、白く見えた人に「それは、あんた、間違いよ」と正すのは平和を愛する人の理念にそぐわない。かといって青いけど白いよねー、と境界線をなくしてしまうと世の中は混乱してしまう。
曖昧さと矛盾に対して寛容になる、と、いうのが本質をついている。しかしながら、人は自分の心に「足がかりになる何か」という線引きなしでは生きていけない。線引きをしないと心許なくてとても不安になる。でも、だからこそ「赦し」が人類にとって永遠のテーマである。解決はないままでヨシとすることも、生きるがゆえの矛盾をかかえるのも、それこそが人生なのだ。